中路正恒 公式掲示板(研究者向き) 52904

Prehisoric Philosophy 「原始哲学」。 中路正恒 公式掲示板。 わたしの公式掲示板とします。しかし内容は研究者向きになります。といっても、研究ノートのようなもの、メモ程度のことばかりです。ブログ「世界という大きな書物」に載せるほど整ってはいない、断片のようなつぶやき。そう、Twitter(@mnnakajist)の再録が主な内容です。でもこれを出発点にしてすぐにアフォリズムぐらい書けそうです。またこの分野に関心のある人や研究者にとってはこれですでに十分ではないでしょうか。有意義な素材がたくさんあるはずです。


ヘルダーリン

1:中路正恒 :

2011/02/12 (Sat) 18:38:22

ヘルダーリンの勉強を進めるための「もうろく帖」にします。
6:中路正恒 :

2011/02/12 (Sat) 19:21:45

今日はドイツ古典出版のヘルダーリン詩集でヨッヘン・シュミットのムネーモシュネーについてのコメンタールを読んでいた。シュミットは、大ストゥットガルト版のようにムネーモシュネー第二稿を立てることに賛成していない。この詩集と、ザトラー版の全集を見ると、テキスト成立事情が大体分かる。
1時間前

シュミットのコメンタールは中々よいものだ。私の関心はムネーモシュネー第二稿を独自に解釈することに意味があるかどうかの点検だが。ギリシャ的アポカリプスというシュミットの概念(S.1037)。これを点検することがひとつだ。私が要にしたい「エコー」という概念はこの第二稿にしか出ない。

シュミットの"furor heroicus"と"furor poeticus"の対比も有効な概念だ(S.1038)。英雄的熱狂/詩的熱狂と訳せるだろうか。「留まるものを打ち建てる」のは詩的熱狂の領分で、「先立って無底に達する」のは英雄的熱狂の領分だと言えるだろうか? 

(承前)いや、「エコー」を転じさせ、生じさせるのが英雄的熱狂なのだろう。「(天上の者たちに)先立って無底に達する死すべき者」という性質は詩的熱狂にも英雄的熱狂にも共通のものだ。他方詩的熱狂は「留まるものを打ち建てる」。これで「回想」と「ムネーモシュネー」が一貫して解釈できる。

"ein Zeichen"や"das Echo"の句を、ザトラー版では詩"DIE NYMPHE"の中に入れて、「ムネーモシュネー」とは別の詩として立てている。





5:中路正恒 :

2011/02/12 (Sat) 19:18:00

私の関心で言えば、"Nemlich es reichen/ Die Sterblichen eh' an den Abgrund/"(つまり死すべき者たちが先立って深淵に達するのだ)というヘルダーリンの詩行で、これは例えば蜂起したエジプトの民のことを言い当てていると私は読むのだ。
2月11日

"Abgrund"を「深淵」と訳していたのでは分からない。無底であり、無根拠であり、保障もなく、ただやむにやまれぬ気持ちのままに行動して、そして殺されることも省みないで行動するということ。これが「死すべき者たちが深淵に達するということで」ヘルダーリンが考えていることに違いない。

先立って死すべき者たちが保障の無いところに達して、はじめてそれとともにエコーが天から響き返されてくる。そのようにして時代が変り、本当のことが起ると、ヘルダーリンは言っているに違いない。ヘルダーリン自身はフランス革命を念頭に置いていたのだろう。

"Lang is/ Die Zeit, es ereignet sich aber/ Das Wahre"。「時は長くかかる、しかし本当のことは起こるのだ」 と訳せるだろうか。本当のこと(das Wahre)とは、新しい時代の本質のようなことだ。これは「留まるもの」と同じだ。

「留まるもの」(was bleibet)と詩「回想」(Andenken)で言われていたことだ。精神の拠り所になること。






4:中路正恒 :

2011/02/12 (Sat) 19:12:39

四日谷敬子の『ハイデッガーの思惟と芸術』を古本屋で見つけて読んでいる。ハイデガーのエアアイグニスについての論じ方を学ぼうと。ヘルダーリンのエアアイグニスと違いが見出せるか? 何かが言えそうな気がする。
2月10日

また、Sattler版で見ると、ヘルダーリンの「ムネーモシュネー」を「Die Nymphe」からどう切り出すかという文献学上の問題があることがわかる。1803年7,8月のテキストを少し辿らないといけない。2.Fassungを主に扱いたいのだが、その纏め方が成立するかどうか。

四日谷前掲書「まさしく卓抜な生起、性起としての『存在の時』を問うている」という句に出会う。これが「性起」の初出に見える。「性起」がエアアイグニスの訳語だろうが、卓抜な生起(Geschehen)と言われても「性起」という言葉の意味が(エアアイグニスも)わかるわけではない。

昨日も呟いたが、私が関心を持つのは「エアアイグニス」の中の「アイグネン」(固有化)がこの「エアアイグニス」の概念の内にどう働いているかということだ。そこを考えないとヘルダーリンの「es ereignet sich das Wahre」は読み解けたことにならない。どう解釈している?

「性起」は『華厳経』から取った言葉だとは聞くが、エアアイグニスの訳語としての使用理由はどういうところにあるのだろう。「卓抜な生起」というだけのことではないだろう。こういう要となる語は「エアアイグニス」と片仮名で使っておくのが一番問題が少ない気がするのだが。




3:中路正恒 :

2011/02/12 (Sat) 19:00:18

Ein Streit ist an dem Himmel und gewaltig/ Die Monde gehn, so redet/ Das Meer auch und Ströme müssen/ Den Pfad sich suchen. 月は同時に複数、暴れて動くのだ。
2月9日

学生時代の拙句:膨らんだ月がふたつ静かにまじり合う。これも夢で荒々しい月の動きを体験した時の句だ。

先の詩の引「Ein Streit ist」の前の一行も記しておかないといけない。 "Wenn nemlich über Menschen"だ。「いわば人間たちを越えたところで…」。

承前】「天でひとつの争いが起り、そして荒々しく多くの月が進みゆくとき、かくて海もまた語り、そして幾つもの大河は(あふれ)自らの細い流路を探さなければならないのだ。」;試訳です。"so"が訳しにくい(「かくて」と訳しているが)。「天の争い」はB・フォンテーヌの"leila"を連想。

また、Sattler版で見ると、ヘルダーリンの「ムネーモシュネー」を「Die Nymphe」からどう切り出すかという文献学上の問題があることがわかる。1803年7,8月のテキストを少し辿らないといけない。2.Fassungを主に扱いたいのだが、その纏め方が成立するかどうか。

ブリジットフォンテーヌの「レイラ」では、天上で最終戦争が起る。

ヘルダーリンの「ムネーモシュネー」第二稿では「(天上で)エコーが死すべき者たちとともに変転すること」=「本当のことが起ること」ととっていいのではないか?

ここまでは大まかな話だが、"es wendet sich"と"es ereignet sich"の違い、それぞれの固有の意味を取り出して行かないとならない。

”ereignen"の中の"eignen"はどこに生じるのか?  歴史的な「時」の特性の問題になるのだろうか? 

また"wenden"に含まれる「向きの転換」はどういうことなのか?

エコーが向きを変える。向きが変ってエコーになる?

エコー:深淵(死すべき者たち)→天上-・向きかえ・-天上→深(死すべき者たち)? 「エコーが返ってくる」ことが「本当のことが起る」ということか。

ヘルダーリンが考えていることの要点にかなり近づいた気がする。第二聯以降も死すべき者(死ぬ者)とエコーとの関係の問題で、そこに愛が入ってくる。



2:中路正恒 :

2011/02/12 (Sat) 18:55:30

今朝、夢の中で講義をしていた。聴講者に私の恩師にあたる大先生たちがいた。そこで思考とエアアイグニスについて自分の考えを述べるわけだが…。お前の本来の仕事としてそれをやれ、という意味の夢だったのだろう。私はまだ書いていない。そして書けなければならない。ヘルダーリンのエアアイグニス。
2月8日

Lang ist/ Die Zeit, es ereignet sich aber/ Das Wahre. このヘルダーリンのMNEMOSYNEの詩行を読み解いて見せろということだ。何もハイデガーにこだわることはない。むしろハイデガー以上に読み解いて見せろということだ。

この詩の"das Wahre"でヘルダーリンは何を考えていたか。どういう出来事を考えていたか。



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